家族同然のお世話になった師匠との別れ

4月21日(金)

 

知らせは突然だった。

 

4月20日の朝に「今週末なんか面白いイベントあるかなー」ってやいまタイムを眺めていたら、謹告の所に見覚えのある名前…

え?噓でしょ?

真っ先に声に出た。

 

そこにあった名前は私の三線の師匠である福里 喜四郎先生の名前が。

いやいやいやいや、そんなはずは無いでしょ。

たまたま同じ名前なだけだよ…そうであってくれ…

そう思いながら詳細を見ていたら、どうやらご本人だった様で。

 

御年90歳、もうそんな年齢でしたか…

私が先生と出会ったのは高校へ入学してから、15歳の頃です。

友人が入部した郷土芸能部に便乗する様に入部。そこで指導をしていたのが福里先生。

当時の私は父が笛をやっていた事もあって部活でも笛を選んでいた。

 

三線には触れた事などありませんでした。

触れる事なんて無いと思っていました。

 

部活の時間外に三線を弾く機会があって、そこで初めて触れて「おぉー!」ってなったんだよね。

右手人差し指にツメをはめて、左手は弦をおさえて、ツメを弦にあてて初めて音を鳴らした時、めちゃくちゃ嬉しくて。

楽器ってね、あまり触れる事無いじゃないですか、なかなかな事が無い限り。

郷土芸能やり始めたからいつかは触れる日が来るだろうと思っていたけれど、実際手に取って構えて、弾いてみると背筋がピンっとなるというか、良い意味での緊張感を味わう事が出来た。

その時教えて下さったのが福里先生。

私相当楽しそうだったんでしょうね…「三線、やってみる?」って言われて「はい!」って言って。

 

そこから本格的に三線の世界に入って行ったんです。

 

はじめは「有名な曲1、2曲くらい弾けるようになったら良いよねー」くらいの軽い気持ちでいたのですが、気付けば新人賞のコンクールの練習をしていました。あれ?(笑)

私はてっきり安里屋ユンタとかてぃんさぐぬ花とか、そういう曲を練習していくもんだと思っていたのでね、全く知らない八重山民謡を習い始めて頭の中がちんぷんかんぷん(笑)

なんせ方言も分からないから何て歌詞なのかからですよ、未だに方言わからんけど。←

そんな私を見捨てずに1つ1つ教えてくださる先生。

先生の指導が良かったおかげで、私は三線初めて数ヶ月で新人賞を受賞し発表会では独唱をさせていただけた。

独唱ってさ、後々知ったけど各賞の上位の人しか出来ない事なんだって。

当時一緒に練習していた子と一緒に独唱(2人違う曲を1曲ずつ歌いました)する事になって、とんでもない先生(褒め言葉)に教えて貰っているんじゃないの私…って怯えたんですよね(;^ω^)

翌年の優秀賞も合格をいただき、再び独唱をさせていただいた。

良い事なのに私にとっては苦痛だった…

 

何故なら私、めちゃくちゃ緊張しいだから!!!

 

そうなんです、独唱出来るってすごい事なんだけれど、私アガリ症がひどくて注目されるのが1番嫌なんです…それなのに独唱する事になって、どれだけ嫌だったか…

そして優秀賞の独唱の時、事件が起きてね。

スポットライトが当たって、いざ歌おうと弾き始めた時…独唱する曲と違う曲を演奏し始めちゃって。

演奏予定の曲と似ている曲があったんですよ…出だしが。それを弾いてしまって「あ…」ってなって、演奏止めて。シーン…となった時に一緒に演奏してくれる笛、琴の方が支えてくれて無事に演奏しきる事が出来た…というハプニングがありまして_(:3 」∠)_

 

その時の笛の子が同級生、一緒に先生から三線を習い始めた子だったんです。郷土芸能部では一緒に笛をやっていて切磋琢磨しながらやっていたのですが、私が本格的に三線を始める事になった事と部活の派遣費を払えない(親の許しが出ず…)事があり退部したんです。

本当は部活続けたかったんですけどね…楽しかったんです、同級生・先輩達に恵まれていて。

でも派遣が多い部活でね、本島へ行ったり大会があって県外に行く事もあって。その時に…まぁ家庭の事情ですね、派遣費が出せないと親に言われて「せっかく楽しく部活やってたのに何で派遣費出してくれないの?」ってショックでねぇ…辞める事になってしまって。その事を先生にも伝えたのですが「部活は辞めても三線は続けなさい、お金の心配はいらないから」って言われて部活のメンバーにはその事伝えずに部活を辞めました…というかお金がないって理由で辞めるって言うの恥ずかしくて言えなかったね(;^ω^)そのまま辞めて三線に集中して。っていう感じでした。

当時の私はアルバイトもしていなかったしお小遣いも貰えていなかったので、自分のお金でなんとか派遣費をまかなうなんて事が出来なかったんです。今じゃ高校生誰でも持っている携帯も持たせてもらえませんでしたしね(;^ω^)

 

ちょっと話がそれましたが、そんなことがあり郷土芸能部は3ヶ月で退部し三線に集中した事で独唱をさせてもらえるレベルまでになれたのですが、まぁーお恥ずかしいくらいに緊張しいなものでねぇ(;^ω^)

演奏終わった後にめちゃくちゃ謝りましたね、笛の同級生と琴の方に。

頭が真っ白になるっていう体験をこの時初めてしたかもしれない…

 

そんな優秀賞を受賞した後は1年また勉強して最高賞を目指すわけですが、まぁーこの課題曲たちが難しい事_(:3 」∠)_

全然覚えきれなくて何度も先生に注意されてね、心ポキポキ折れまくってましたよ。

新人賞・優秀賞が順調だったせいで、急にレベルがぐーんと高くなるわけで、そこに私の力が追い付かないわけですよ。どんなに練習しても先生の思っている様には出来ていないみたいで何度怒られた事か…でも辞めよう!って思わなくて。不思議と。

当時の私は親身になってくれる先生の期待に応えたいって必死だったのかもしれません。

あんなに怒る?ってくらい怒られまくったからね、今だから笑い話(・∀・)当時はツラかったー

きっとね先生を知る人は「えっ、あの優しい福里先生が?!」ってなるかもしれん…実際は厳しかったぜー…

私が先生に甘えていた所もあったかも、先生優しいからこれくらいでは怒らんよーくらいの気持ちでやっていたからめちゃくちゃ怒られたんだはずね(笑)

今更ですが先生、すみません。(笑)

 

そんな感じで最高賞の練習を続けていたのですが、いざコンクールで順調に歌っていた所を歌詞がとんで歌えなくなって終わるという最悪の結果を出してしまい、舞台裏で大泣きしてしまいましたね…これが20歳の時。

先生は審査員席に居たので「やったな」って内心怒っていたはずなのですが今となっては当時の心境聞かせて貰えないなぁ…コンクール後も練習に行くのこわかったけれど「まぁ…来年また頑張るよね」って感じで励まされ(?)何事も無かったかの様に練習を再開したのは先生の優しさだったのかなと思っている。違うかな、え?

で、翌年のコンクールで無事合格貰って、ありがたい事に独唱までさせていただいて…

 

だから独唱だけはダメだって_(:3 」∠)_

 

最高賞の独唱って1番注目浴びるんですよ…客席だけじゃなく、舞台袖でも受賞者たちが集まってきて見ているので私の緊張はMAX越えですよ…越えちゃったよ(笑)

テンパった私は工工四を琴の下に置かせてもらって、いわゆるカンペですね。カンペを置いて挑んだのですが…アホな事にメガネをかけていなかったのでそのカンペが見えないという事態に(笑)

それに気付いたのがスポットライトを浴びた時でした…メガネ取りに戻れないし終わった…って思っていたのですが、あれだけ先生にしごかれたんだから出来るはず!って思って、半分やけくそで歌わせていただきました…

きっとね、こんな事しているの私だけだと思う、最高賞受賞している方はカンペ持たんもん。(笑)

先生に後日談としてこの事話したら笑われてしまいましたが「それくらい私緊張していたんですよ!もう独唱したくない!」って怒る私は更に笑われてしまいました…

 

そんな事あったなぁ…懐かしいわ。

今ブログ書きながら色々思い出してますが、私独唱目指してコンクール出ていないからさ、新人賞・優秀賞・最高賞と全部独唱させてもらえたの凄いありがたい事かもしれないんだけれど…正直嫌だったよ?(笑)

私、記憶力も表現力も悪い方なんですが、声量は自慢でして…民謡じゃないけれど歌うのは大好きなんですよ。人前でなければ。

そこを先生がどんな汲み取り方したのか謎ですが、堂々と歌う子だって勘違いしてしまったのかもしれない…多分ね?

でもそんな先生には感謝しているんです、感謝しかない。

何にも分からないゼロの状態からここまで育て上げて下さったんです、私自身が1番驚いている。

知らない世界を見せてくれた先生には感謝でいっぱい。

 

最高賞を受賞した後は教師免許取得の為の練習期間になっていたのですが、私が転職したり島を離れたりしてしまって三線から離れてしまったんです。

それがいけなかった。

県外へ移住している間も三線は持って行って練習をしていたのですが、帰ってきてからですよね…全然練習に顔出せなくて。

三線よりも自分の時間に費やしちゃったのがいけなかったなぁ…って今更ながら反省している。

まさか先生が90歳前になっていると思っていなくて、というか先生の年齢知らなくて(ぇ)

4年前にお会いした時は私の知っている先生のままで、少しお疲れなのかな?と思う感じ。部活の指導は続けていただろうからそれが大変なんだろうなーって思っていたくらいだったのですが、6年前から病気を患っていたそうで…死因は肝不全だったそうです。

同じ島に居るのになかなか会いに行けなかったのも、丁度コロナが流行り出してしまってから。

私には症状が出て居なくてももしかしたら先生にうつしてしまうかも?!って思うとこわくて行けなくて…やっと最近色々緩和されてきたから行かなきゃって数日前に考えていた矢先でした。

本当に数日前に「そろそろ行こう」って思っていたので「これがいわゆる虫の知らせというやつか…」と感じましたね。

 

結婚した事は伝えていて自分の事の様に喜んでくれたのが嬉しかったのですが、子供達を会わせる事が出来なかったのが悔やまれます。

丁度知った20日にお通夜との事だったので、子供達を連れて先生に会いに行って来ました。

奥さんとはだいぶ久しぶりに会うから忘れられてしまっているだろう…と思いながら名前を伝えると思い出してくれたみたいで握手してくれた。

娘さんも私の事を覚えていてくれて、子供を連れて来た事にビックリしていた。そうなんです、子供2人居たんです…報告が遅くなってしまって本当にごめんなさい。

祭壇(っていうのかな?)の写真を見ると私の知っている先生の姿、お久しぶりです。と声を掛けてお線香をあげさせてもらって、柩の中にいる先生のお顔を見せてもらったら…私の知らない先生の姿でした。

6年間大変だったんだろうな…4年前に会った時はそんなそぶり無かったのに。

 

「会いに来るの遅くなってごめんね先生」

 

何度も何度も謝りました。

子供達の顔、見えたかな…可愛い子が2人も産まれたんですよ。

私にとっておじいちゃんの様な存在だった先生、私の子供達はひ孫よ。勝手に認定しておきます。

まさか御病気だったとは…未だに信じられん。

ありがたい事にしばらく先生とお話させていただいて、翌日の告別式の時また伺います。と伝えお通夜の席をあとにしました。

 

翌日の告別式、お通夜に行っておいて良かったと感じました。

先生は既に骨壺に入っておりました。

火葬場が混雑しているとの事で火葬が先になったのだそう。

 

会場へ着いて御親族へ挨拶をし、いざ先生へ手を合わせた時、ついさっきまで大丈夫だったのに涙がボッロボロ出て来て。

「本当に遅くなってごめんね」

「こんな弟子でごめんね」

何度も何度も謝りました。

謝りすぎだよと先生は笑って見ていたかもしれません。

申し訳なくて、悔しくて。どうしようもなかった。

告別式へは最後まで参列させていただき、先生のお見送りもしました。

 

いつかはこういう日が来るとは思っていたけれど、ちょっと早かったなぁ…

未だに信じられないんだよね。

「そろそろ行こう」と思った日にお亡くなりになっていたそうで、虫の知らせというのは本当にあるんだなぁと感じました。

子育てで慌ただしい中、急に先生の顔が浮かんだんですもん。「あ、コロナも緩和されたしそろそろ先生の所行こう」って急に思ったんだ。

先生、待っていてくれてたんだろうなぁ…

まだ現役で先生の教室へ通っている生徒さん達も告別式へ来ていて、私の事を覚えていて下さって。

「先生、ユキノちゃんの事自慢していたんだよー」

「凄い子が居るんだ!って」

「良い歌声なんだよーって」

えっ、私の事を自慢していた?

こんなに出来損ないの弟子をですか?

ビックリして声が出なかったです…そして、嬉しかったです。

あんなに厳しかった先生が認めて下さっていたなんて最高じゃないですか。

そう言って下さっていると知っていたならもっと頑張れば良かったな…後悔しても遅いのですが。

どうせなら目の前で褒めて欲しかったなぁ、1度で良いから。

 

でもやっぱり思うのは先生への感謝ばかり。

1から三線の事を教えて下さった事、いつでも気にかけていて下さった事、なにより先生に出会えた事、本当に感謝しています。

喜四郎先生、長い間お疲れ様でした。

私がそちらへ行くのはいつになるやら…ですが、いつかそちらへ行った時はまた一緒に三線弾きましょう。それまで練習頑張っておくので見守っていて下さい。…間違えてたらいつもみたいに「違う!」って教えて下さいね。

 

また会えるその日まで、ベランダ目指してバンガるよ。

※ベランダ=ベテランの最高位、バンガる=頑張る。先生の造語です。(笑)

これからブログでも使っていきまっす♪

 

喜四郎先生!本当にありがとうございました!!!



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